権威に対していかに抗うか
影響力の攻撃
世の中には,有無を言わさず,人々に言うことをきかせる力がある。心理学ではこの力,権力とも言い換えられるだろうが,これを「勢力(power)」とよんだりする。
ya.bunkyo.ac.jp/wiki/index.php/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E7%9A%84%E5%8B%A2%E5%8A%9B
例えば,大学名や医師,政治家,といった,社会的な地位の高い人々が持つ権威であったり,真意はどうあれ,多数派が少数派に同調圧力をかけたり,日本では,年齢が上の者が下に,男性が女性に,頼みごとをするときなど,人が他者に,強制的に言うことをきかせる要素はたくさんある。
それに関連する話で,今日書きたいのは,他者への影響力についてである。
今回の書き出しは,影響力を持つ者が,知らず知らずのうちに他者を攻撃してしまうことについて,示唆するものだ。
以下では,具体的な事例を挙げて説明しよう。
私の体験
先日,飲み会があった。
そこにDQNがいたのだ…。以下,Aと呼ぶ。
おそらくその場にいるほとんどの人がAと初対面であったと思う。にも関わらず(だからこそ?),Aは輪の中心に入りたがった。誰と誰が話していても,その話に割り込み,自分の話に塗り替えた。
さて,こう書いてある時点で,私はAのことを心底好きに離れないと感じていることが伝わったと思う。
ごもっともだ。私はAが好きではない。
Aの話を一つ上げておこう。
大学の講義中,遅れていくと,前の方の席しか空いていない。だから仕方なく前の方に座り,教師の目の前でツムツムをしたら,それを指摘された。
A曰く,「フィーバー中に話しかけるな」。
その自慢げな様子といったらない。
まるで,不真面目であること,教師の前で不良のようにふるまうことが,みながみな面白がることであると思っているような口ぶりだった。
私はクソ真面目,兼,共感が得意なので,目の前で教員が話している目の前で,ツムツムをする,なんてことを,恥じることなく言い放つAの気もちがわからなかった。教員の身になってしまうのだ。
Aはところどころで,自分がみなよりも年上であることを強調した。浪人と留年で,現役であれば21歳である大学3年生だが,実年齢は25であるそうだ。
Aは,話題の中心が自分から外れることが,自分に注目が向かない状況に耐えられないようだった。なんとか,みなの輪に入ろうと努力してるのがうかがえた。
そこまでは,私もまだ耐えられた。
しかし,空気が一変した。
それは,Aと同じ学校の,Bが後から合流してからだった。確認しておくと,Bは22歳,4年生である。
その場には,サラダがきており,各々が自分の皿に盛っていたが,Aは盛る様子がなかった。
Bが来てから,Aはもっと砕けるようになり,だんだんと横柄になっていった。
AがBに対して,やっと飯が食える,と言いたげに,サラダを盛るように促したのだ。
Aは自分の皿に,異性であるBがご飯を持ってくれるまで,ご飯を食べていなかった。今どきの青年で,こんなに古い(古き良き,では決してない)考えを持った人がいるとは思わなかった。
Aはほかにも,空になった自分のお酒の缶を指さし,Bに,酒を持ってくるように促した。Bは,今回だけですよ,と,仕方なく持ってきていた。
あえてここまで性別を示さずに書いたが,皆様もうお気づきだろう。Aは男性で,Bは女性である。
Aは,女性蔑視の思想を全面的に持った人だった。
Aはみんなの前で,Bがべっぴんさんであるとか,彼氏ができたか,とか,大声できいていた。
Aの言動について。私の抗いについて。
今の世界では,この行動が完全にセクハラ,パワハラに当たることを知らなかったのだろうか。
なぜ,Bの恋愛対象が男性であると,「彼氏」であと,決めつけるのか。
Bが,Aの恋愛対象として見られていることに,不満を覚えないと思ったのだろうか。
女性がお酒を注ぐこと,ご飯を盛ることが,当たり前と思い込んでおり,自分からならまだしも,それをAから強いられないといけなかったのだろうか。
Aはこの言動を,これまで,だれにも指摘されることなく生きてきたのだろう。
これらの言動は,直接私に向けられたわけではなかったが,私は,あの場でどう行動すべきか,考えた。
考えた結果,刻一刻と女性性という縄に縛られ,知らず知らずの間に心身をすり減らし,傷ついていくBをケアするために,そしてなにより,その現場に居合わせた私自身の当為を果たすという大義のために,これらの行動を見過ごすわけにはいかなかった。
そして,指摘した。詳しくは書かないが,なかなか鋭く突いてしまったと思う。
Aは最初の方は,「なんやねん,だれ??」ととぼけていたが,そののち,黙って,しおらしくなってしまった。
マウンティングする人,権威や力を振りかざす人なぞ,こんなものなのだ。,ちょっと穴をついたら,尻すぼまってしまう。
結局のところ,そのようにしないと,自分自身に価値はないと,自分が一番よく知っているのだろう。
私はその様子をみて,自分が言いすぎてしまったかなと,少しだけ内省しながら,Aがこれまで誰にも指摘されずに,ああして生きてきたことを同情した。
ただ,ひとついえるのは,知らないことは罪で,業である。
彼の言動で,これまでどれだけの「被害者」がうまれたか,計り知れない。
まとめると,AはBに対して,社会的にまだまだ力を持つ,男性と女性という立場であること,社会的に,いうことをきかせることや,敬語を使わせるというところで力を示すことができる,年上と年下であったこと,という2点から,社会心理学でいう勢力,権力を持っていたといえる。
権威に対していかに抗うか
自分は他人より力を持っている,とか,影響力を与えられる存在である,と思ったときに,少なからず人は,「下位」にある人物に対して,横柄に,攻撃的になってしまう。典型的なのが,女性蔑視・軽視である。
そんなとき,そんな自分を自覚して,行動に配慮できるかどうか。
そのように権力をふるう人間に,「NO」といえるかどうか。
その場に立ち会ったときに,助け舟をだせるかどうか。
もっとも,これは会社や組織などで一番起こりやすいので,その空気を壊さずに,相手の身分を尊重して,ユーモアを交えて対応できれば,なおいい。
ただ,どう行動するにしても,自分がどのように思われたとしても,弱者の側に立つ,というのは,非常に勇気のいることであるのは確かだ。
こういう場面こそ,自分の真価が問われる。
20220407
生きづらさの超克
4月は,新しい生活の始まりであり,そして…
これまでの生活とのお別れとなる。
私も本日,大学院という新天地で,見知らぬ建物,見知らぬ人がうごめく,独特の空気に触れた。
少し前の大学には,居心地の良さを感じ,すれ違う人々にも愛着を覚え,声も顔も馴染みの深い先生たちを見かけると,ふとうれしくなって声をかける,そんな暖かな空気を感じていたのに。
新しい環境というものは,なぜこんなにも冷たく感じるのだろうか。
生きづらい生き方
今日,知人Aが,その友人,Bの話を引き合いに出してきた。Bは,私が知らない人であったが,非常に能力が高く,同時に,とても繊細らしかった。
曰く,Bはいろいろなことにアンテナをはる。だからこそ,その社会の弱い部分に,真摯に自分の能力を発揮できるのだが,その反面,向かってくるものに対して過剰に角を立てる,という,ストレスの多い生き方をしている。言い換えると,「生きづらい生き方をしている」そうだ。
Aが言うに,Bは,世界でこんなに苦しい思いをしているのは自分だけだ,世間は自分に対してなんて不公平なんだ,と,あれこれ騒ぎ立てているが,実際は,みんな表沙汰にしないだけで,それぞれの苦しみや痛みを,それぞれの内面で感じているのだという。だから,そのような生きづらい生き方ではなく,できることを精いっぱいする,今目の前にある世界を受け止め,少しでも前向きにとらえる見方をすればいいのではないかというのが,Aの意見であった。
私は,Aが話すことに対して,共感はしなかったが,これは,遠回しに,自分に言われていることだと思った。私自身,「生きづらい生き方」をしている自覚が,少なからずあったからだ。
「生きづらさ」とは何か
生きづらさの原因はなんだろうか。
私は,想像力を強く持っていることだと思う。
最近注目されているHSPの説明はここではしない。したくない。これについてはいつか特集しようと思う。
日々の生活の中から,自分に対する微細な「攻撃」を敏感に感じ取り,それに反応してしまうことが,きっと,生きづらさの正体である。
ここでいう反応とは,相対した人,つまり加害者への,一種の報復として,敵対感情を向けることもあれば,ツイッター上での不満や怒りのつぶやきとして現れることもある。あえて表出せず,自分の中でため込んでしまう人も,気づいているからこそストレスになってしまっているという点で,反応しているといっていい。
しかし,もっと現実を見てみると,こんな世界で生きていて,敏感でいられない方がおかしい。誰しもが,なんらかの生きづらさを抱えて生きている。そのAの話は,ごもっともだ。
もっというと,多少なりともパワハラ,アカハラ,セクハラに声を上げやすくなった今なら,今後の世界ではきっと当たり障りなく,他者への「攻撃」を自分自身がしないように,アンテナを張って生きていけるだろう。敏感であることが,今後の社会では必須条件として求められるようになるのだ。
この世界では,今,敏感であることが生きづらさにつながってしまうのかもしれないが,将来はきっと,この人たちの持つ痛みが正当なものであると認められる時が来る。
しかし,どうしても今は,その敏感さが生きづらさに直結する時代である。
そんな今だからこそ,改めて,敏感であることの正当性を語っておきたいのだ。
敏感な人こそできること
見たい部分だけ見て,見たくない部分は見ない,というように,選択的に,鈍感でいられたら,どんなに生きやすいだろうか。そういうふうに生きられた方が幾分か幸せだろうと思える瞬間は,確かにある。
しかし,現実はそう簡単にはできていない。自分に敏感であればあるほど,他者の痛みにも敏感であれる。寄り添うことができる。他者の痛みを想像し,自分のことのように,痛み,苦しむ能力を持っている。そして,いろんな「他者(ここでは,あらゆる面でのマイノリティや,社会的弱者を含む)」を抑圧する,社会的な風潮の是正に向かって,当時者たちと一緒に,活動することができる。本来なら,半端に関わるならやらない方がましだ,という当事者からの声が上がってもおかしくないが,敏感さを持つ人ならば,話は違う。敏感な人が,想像力を持つ人が,強さをあわせもったときこそ,もっとも人々を魅了し,弱者に力を与えるのだろう。
敏感な人こそ,活動家たれ。
勉強して,自らの感受性と思想を鍛え,
社会的弱者である「当事者」に出会い,その声なき声に耳を澄ませ,
自分自身にできること,すべきことを見いだせ。
敏感さを言い訳にして卑屈になるのではなく,生きづらい社会の是正のために,その身をささげる道こそが,私にとっての幸せになりうる。いや,それこそが社会全体の望む幸せなのであろう。自分の仕事が,社会のためと思えないと,人はすぐにだめになってしまう。
いかんせん,私が感じる生きづらさは,私にとっての幸せにつながる可能性を秘めている。私の幸せは,生きづらさとのっぴきならない関係なのだ。
生きづらさの超克
今の日本社会では,自分や,特定の少数派の属性を持つ人に対する風当たりは,未だ強いままだ。彼らは,多数派と異なる,異質な存在として好奇の目にされされ,ときには,その生きづらさが自己責任として処理され,非難の視線を浴びることになる。
さて,生きづらい生き方をしているのは,そのような考え方をあえてする,個人の問題であるというAの考え方は,間違ってはいないのかもしれない。
しかし私は,その生きづらさに誇りを持ちたい。だからこそ,理解できる人の痛みがあるんだと。
……
新しい年度,そして生活の訪れに,ときには絶望,ときには胸を躍らせながら,「自分に厳しい,どうしようもない世の中だ…」と,そう考えてしまう私も肯定しながら,生きていきたいな。
20220404
まじめちゃんのスナック体験
大阪,夜の街にて…
先日,高校の同窓会があって,結構酔っ払ってしまった。
そしてべろべろになり,海馬も前頭葉もバグった状態で,深夜2時ごろ,3次会に行った。
ふと意識を取り戻して到着したのは,大阪の難波にある,同級生の知り合いのお店だった。その店はいわゆるスナックで,女性と男性が一人ずつ,「ママ」,「マスター」としていらした。
友人がそこで働いているということにも驚きだったが,まあその時の感情については今回のテーマの主眼ではないから,割愛する。
酩酊していたため,おぼろげな風景の中で,私は,その街のありようを見ながら,そこでしか働き口がない人,そこで働く外国籍の人,そこでしか生きる価値を見いだせない人たちを目の当たりにした。
街には,ホストクラブ,風俗,キャバクラが並び,化粧が濃く,露出も多い女性や,顔や服にじゃらじゃら光るものをぶら下げた男性が,お客を探している。
そして,サラリーマンが吐いていたり,路上生活者の方が横になっていたりと,社会の「掃き溜め」,「底辺」と呼ばれる所以のような景色が広がっていた。
相反する感情
私は,いたってまじめに育ったから,そのお店で,見知らぬ異性が隣に座って話しかけてきたとき,とてつもない孤独を感じた。ここは私の居場所ではないと強く感じたのだ。
そして,その孤独感と共に,脳内では,「ここにいてはいけない」という声もずっと響いていた。かろうじて機能している前頭葉が,私に警告を鳴らしているのかなと思った。私は,この街が,私にとっていかに危険かを,理性的に知っていたからだ。
しかし,私から湧き出てくる感情の中で最も恐ろしかったのは,安心感であった。
限られた時間,限られたお金で結ばれている関係であるからこそ,自分とは一線を引いて,必ず干渉してこないという安心感。
だからこそ,目の前にいる,非常に風貌のよいこの人には,無限に自分の弱い部分を見せてもいいのかもしれない,親身に話を聞いてくれるかもしれないという安心感。
私の心の奥底のどこかにある不安や孤独を,この街なら満たしてくれるかもしれないという感覚が芽生えたのだ。
孤独と安心がまったく同時に存在するというのも変な話だが,あの場にいた私の感覚を言語化すると,まさに以上のような気持ちだった。だから,ずっとこの時間が続けばいいのに,と,早く帰りたい,という相反する感情が,混在していた。
自らの中の蔑視感情を問い直す
私が安心感と孤独感を覚えた理由はいくつか考えられた。
が,そのうちやはり大きかったのは,社会的なステータスでいうと最下層であるこの街と,この街の人々を卑下する気持ちがあったことが,原因として大きいだろう。
一方では,この街にいては自分が「堕落」してしまうのではないかと思う一心から,早くここを出ないといけない,と感じ,
もう一方では,ここは「最下層」だから,ここにいれば,もうこれ以上は「落ちぶれる」ことはない,努力する必要がない世界にずっといられるのではないか,と感じたのだ。
私の書き方に,不満を覚える人も多いことだろう。
その場所での仕事に,胸を張って働いている人には,上記の文章はあまりにも失礼に当たるだろう。
しかし,差別感情,蔑視感情を持たない人間が,この社会にいるだろうか。
本当に堕落した人間は,差別や蔑視を抱えた自分を顧みようとしない人間である。
だから私は,そんな自分を恥じ,軽蔑するとともに,そこで精いっぱい働いていらっしゃる人に,以上のような感情を持ってしまったことを,心からお詫び申し上げたい。
夜の街はいつでも
ただ,疑問があるのだ。
ここにいる人たちは,もっと別の職に就くことができなかったのだろうか。
ここに赴く人たちは,もっと別の,体にも心にも健全な,ストレスの解消法はなかったのだろうか。
こういった夜の街に,娯楽を求めざるをえない人たち。
こういった夜の街でしか,生きる価値を見いだせない人たち。
この人たちの多くは,他人に莫大なお金を遣うことに,自分の人生を賭ける。たとえいくらお金を貢ぎ込んでも,心の隙間を埋めてくれるような関係にはなれないとわかっているのに。気持ちとしての見返りは,決して返ってこないと知っているのに。
やはり,この世の中には,承認欲求が満たされていない,だとか,家族がいるがどこかしらで孤独を感じている,とか,そういった人々が多いのだろう。
この消費社会はどうしても,人々の心に欠乏感を生じさせてしまうらしい。
そんな,心になにがしかの闇・病みを抱えた人が,なんらかのきっかけで,夜の街とかかわりを持ち,見事に,その街の歯車に組み込まれてしまう。
自分が存在する意味が分からず,社会に対してとてつもない孤独を感じてしまう経験は,きっとだれにでもある。
夜の街は,その心の隙に取り入ってくる。また,その心の隙は,ネット世界やゲームにのめりこんでしまう心理や,恋愛関係でもつれてしまうことにもつながってくる。不安の矛先が違うだけだ。
だからこそ,自尊感情や,自己肯定感こそ重要なものはないのだろう。しかし,それすらも自己愛につながりあるから,ざまあない。
夜の街は,いつでもみなを手招いている。近づいてくる人物は,だれでも快く迎えてくれるだろう。
さて,この夜の街の引力に,一体だれが抵抗できるだろうか。
20220403
20220402自己紹介
心理学専攻,大学院修士課程1年生。22歳。
初投稿は自己紹介。
マイブーム:ボカロを聴きながらの筋トレ
おなかが出てるので,3日に一回ぐらい筋トレを頑張っている。
ちな小4の頃からニコ厨。
(同時2010年;ローリンガールをきっかけに大はまり)
好きなこと➀:文章を書くこと
がちがちの知識人の書くような文章が書きたい。
自分で書いて自分でうっとりしたい。
好きなこと②:内省
自分の見たもこと,聞いたこと,したこと,それによって感じた,考えたことを,過去の経験や育ってきた環境と照らし合わせて考察するのが好き。それによって自分が高まっていく感覚も好き。
好きなこと③:学び
これが嫌いな人間はいないと思っている。
自分を高める努力は怠らないでいたい。
本や日常会話,飲み会,出来事から得た学びを大切にしたい。常に自己点検。
経歴
放任主義の母子家庭の下で育つが,大きくグレることもなく,まじめに高校まで通う。
なお,ネット上にはのめりこんでいた模様。
nanaというカラオケアプリはご存じだろうか。
中高生のころ,これとツイッターを駆使して,歌投稿して,つながって,見知らぬ人とカラオケ行ってた。今思えばすごい。
大学では心理学を専攻。
心理学を志したきっかけは,
・人々が狭いコミュニティの中で,なぜスケープゴートを生み出すのか,そのメカニズムが知りたかったから
・自分がなぜこのように考えるようになったのか,なぜこのように育ったのかについて,家庭環境も踏まえて,そのヒントが得られると思ったから
である。
大学時代は勉強しながら,学生団体に属し,飲み会の楽しさを知る。
飲み会でバグりながら議論するけど,後日なにも覚えてないあの感覚,癖になるよね…。
そこそこ取り繕って話すのが得意なので,就活はうまくいったと思う。
でも結局,内定3社を蹴った。
進学して,心理学の大学院にいこうとしたきっかけは,
・心理学という学問を究めたくなったから
・大学での研究が楽しくて,研究者になる道が開けたから
・公認心理師の取得に不可欠だったから
・モラトリアム
である。<-いまここ
好きなアニメ
ブログの目的と内容(予定)
主に,私の思考整理と,感情コントロールのために使用する。
文章力アップも狙い。今のところは文章力なんぞ無視の日記と化しているが。
心理学の本や論文など,たまに,たまーにはためになる発信をするかも。
承認欲求高めで,内省好きで,心理学を通してもっとそれに拍車がかかった私の経験と感想を,つらつら垂れ流すだけの日記です。
よろしくね。