rrrkfk1021の日記

これぐらいの絶望で、俺が止まると思うなよ

生きづらさの超克

4月は,新しい生活の始まりであり,そして…

これまでの生活とのお別れとなる。

私も本日,大学院という新天地で,見知らぬ建物,見知らぬ人がうごめく,独特の空気に触れた。

少し前の大学には,居心地の良さを感じ,すれ違う人々にも愛着を覚え,声も顔も馴染みの深い先生たちを見かけると,ふとうれしくなって声をかける,そんな暖かな空気を感じていたのに。

 

新しい環境というものは,なぜこんなにも冷たく感じるのだろうか。

 

生きづらい生き方

今日,知人Aが,その友人,Bの話を引き合いに出してきた。Bは,私が知らない人であったが,非常に能力が高く,同時に,とても繊細らしかった。

曰く,Bはいろいろなことにアンテナをはる。だからこそ,その社会の弱い部分に,真摯に自分の能力を発揮できるのだが,その反面,向かってくるものに対して過剰に角を立てる,という,ストレスの多い生き方をしている。言い換えると,「生きづらい生き方をしている」そうだ。

Aが言うに,Bは,世界でこんなに苦しい思いをしているのは自分だけだ,世間は自分に対してなんて不公平なんだ,と,あれこれ騒ぎ立てているが,実際は,みんな表沙汰にしないだけで,それぞれの苦しみや痛みを,それぞれの内面で感じているのだという。だから,そのような生きづらい生き方ではなく,できることを精いっぱいする,今目の前にある世界を受け止め,少しでも前向きにとらえる見方をすればいいのではないかというのが,Aの意見であった。

 

私は,Aが話すことに対して,共感はしなかったが,これは,遠回しに,自分に言われていることだと思った。私自身,「生きづらい生き方」をしている自覚が,少なからずあったからだ。

 

「生きづらさ」とは何か

生きづらさの原因はなんだろうか。

私は,想像力を強く持っていることだと思う。

最近注目されているHSPの説明はここではしない。したくない。これについてはいつか特集しようと思う。

 

日々の生活の中から,自分に対する微細な「攻撃」を敏感に感じ取り,それに反応してしまうことが,きっと,生きづらさの正体である。

ここでいう反応とは,相対した人,つまり加害者への,一種の報復として,敵対感情を向けることもあれば,ツイッター上での不満や怒りのつぶやきとして現れることもある。あえて表出せず,自分の中でため込んでしまう人も,気づいているからこそストレスになってしまっているという点で,反応しているといっていい。

 

しかし,もっと現実を見てみると,こんな世界で生きていて,敏感でいられない方がおかしい。誰しもが,なんらかの生きづらさを抱えて生きている。そのAの話は,ごもっともだ。

 

もっというと,多少なりともパワハラアカハラ,セクハラに声を上げやすくなった今なら,今後の世界ではきっと当たり障りなく,他者への「攻撃」を自分自身がしないように,アンテナを張って生きていけるだろう。敏感であることが,今後の社会では必須条件として求められるようになるのだ。

 

この世界では,今,敏感であることが生きづらさにつながってしまうのかもしれないが,将来はきっと,この人たちの持つ痛みが正当なものであると認められる時が来る。

しかし,どうしても今は,その敏感さが生きづらさに直結する時代である。

そんな今だからこそ,改めて,敏感であることの正当性を語っておきたいのだ。

 

敏感な人こそできること

見たい部分だけ見て,見たくない部分は見ない,というように,選択的に,鈍感でいられたら,どんなに生きやすいだろうか。そういうふうに生きられた方が幾分か幸せだろうと思える瞬間は,確かにある。

しかし,現実はそう簡単にはできていない。自分に敏感であればあるほど,他者の痛みにも敏感であれる。寄り添うことができる。他者の痛みを想像し,自分のことのように,痛み,苦しむ能力を持っている。そして,いろんな「他者(ここでは,あらゆる面でのマイノリティや,社会的弱者を含む)」を抑圧する,社会的な風潮の是正に向かって,当時者たちと一緒に,活動することができる。本来なら,半端に関わるならやらない方がましだ,という当事者からの声が上がってもおかしくないが,敏感さを持つ人ならば,話は違う。敏感な人が,想像力を持つ人が,強さをあわせもったときこそ,もっとも人々を魅了し,弱者に力を与えるのだろう。

 

敏感な人こそ,活動家たれ。

勉強して,自らの感受性と思想を鍛え,

社会的弱者である「当事者」に出会い,その声なき声に耳を澄ませ,

自分自身にできること,すべきことを見いだせ。

 

敏感さを言い訳にして卑屈になるのではなく,生きづらい社会の是正のために,その身をささげる道こそが,私にとっての幸せになりうる。いや,それこそが社会全体の望む幸せなのであろう。自分の仕事が,社会のためと思えないと,人はすぐにだめになってしまう。

 

いかんせん,私が感じる生きづらさは,私にとっての幸せにつながる可能性を秘めている。私の幸せは,生きづらさとのっぴきならない関係なのだ。

 

生きづらさの超克

今の日本社会では,自分や,特定の少数派の属性を持つ人に対する風当たりは,未だ強いままだ。彼らは,多数派と異なる,異質な存在として好奇の目にされされ,ときには,その生きづらさが自己責任として処理され,非難の視線を浴びることになる。

 

さて,生きづらい生き方をしているのは,そのような考え方をあえてする,個人の問題であるというAの考え方は,間違ってはいないのかもしれない。

 

しかし私は,その生きづらさに誇りを持ちたい。だからこそ,理解できる人の痛みがあるんだと。

 

……

 

 

新しい年度,そして生活の訪れに,ときには絶望,ときには胸を躍らせながら,「自分に厳しい,どうしようもない世の中だ…」と,そう考えてしまう私も肯定しながら,生きていきたいな。

 

20220404